それでも僕は書き続ける!!

1996年生まれの阪神ファン。プロ野球や日々の感情を文章に表す楽しみを感じながら気ままに書きます

【野球コラム】中日ドラゴンズ・「サウスポー応援」について僕が思うこと

 「別にそういうつもりで言ったわけじゃないのになあ」

 

 人の言葉は機械のように正確じゃないから、ときに自分が思いもしない解釈をされることもある。小さな捉え方の違いから、大きなすれ違いを生むことだってあるだろう。
 じゃあ、そういうときって発言した方と、発言者の望まない解釈をしてしまった方、どちらに責任があるのだろうか。

 僕はやっぱり、言ってしまった方に一定の責任があると思う。100人いたら100通りの解釈があるのはある種当然で仕方ない部分もあるのだが、その事実に甘えることなく、少しでも多くの人に正しく伝わるよう努力する責任が、発言者にはあると思う。
 何が言いたいのかというと、そういうつもりで捉えてほしいわけじゃなかったとしても、受け取る側がそのように受け止めてしまったら、それはそういう風になってしまう、ということだ。

 

 僕はプロ野球の応援が大好きだ。「なんで高校野球じゃなくてプロ野球なの?」と友人に聞かれたら「応援が楽しいから」と答えるくらい、プロ野球の応援に惚れ込んでいる。ファンである阪神タイガースの応援歌に限らず、他球団の応援歌も好きでこっそり歌いに球場に行くくらいだ。だからこそ今回の「サウスポー応援問題」について、自分の意見を発信したいと思った。

 

応援は誰のもの?

 

 僕が応援をするとき常に考えているというか、心に持っているポリシーが1つある。

 

 それは「誰のための応援なのか?」。

 

 応援なんだからチームのために決まっているだろう、そう思うかもしれない。しかし中には自分だけが気持ち良くなるためだけに声を出している人だっている。もはや叱咤激励の域を超えた罵声、選手を馬鹿にしたような野次、果たしてこれらは選手のための応援なのだろうか?
 
 やや話題がそれたが応援とは、選手やチームが最大限の力を発揮できるようにファンが背中を押せる唯一の行為とも言い換えることができるだろう。

 

 選手やチームが精いっぱい頑張れるように中日の応援団は声を張り上げて、太鼓を力一杯叩いていたはず。それなのに「その応援はちょっと・・・」と言われてしまったのだから、そのときの心情はさぞつらかったはずだ。自分たちがよかれと思っていた行為で、選手やチームに迷惑をかけてしまったのだから。そのときの心境をくみ取ったファンたちが今回の騒動に対して反発の声を上げているように思える。

 

 しかし、僕は選手やチームが応援に対して「嫌だ」「変えてほしい」と言ってきたときは、その意見を受け入れる以外の方法はないと思うのだ。なぜなら、応援はチームのためのものだから。たとえ応援している側がそういうつもりじゃないのにと思っていても、受け取る側つまりチームが良く思っていないなら、そこはチーム側の意見が優先されるべきだと思う。

 
 極論に近くなるが、チームの言うことに納得ができないなら応援なんぞやめてしまえばいい。別にあっちは応援してくれと頭を下げているわけではないのだから。プロ野球の応援は、ファンが自分で応援したいと思ってやっている行為だ。そこに対等な関係があると勘違いしてはいけないと思う。

 

「お前」にこめられた意味

 

 ここまで自分の考えを書かせてもらったが、サウスポー応援そのものがなくなってしまうのは反対だ。応援歌の歌詞にある「お前」は選手を下にみた無礼な態度から発せられたものと考えるのは、少し拡大解釈だと思う。


 「応援してあげてやってるんだから選手のことをお前って呼んでもいいだろう」というよりは、「ここで打ってくれるのはお前しかいないんだ頼むぜ!!」といったニュアンスが込められているのではないか。そこには「あなた」や「君」とは違った、言葉としての力強さを感じる(この辺りの微妙な差が生まれるところが日本語の魅力だと思う)。それこそ力強い言葉を使うことで、応援する側もされる側も闘志が奮い立つのではないだろうか。そういった言葉のチョイスの背景を無視して、ただ「お前って言葉はちょっと・・・」と言ったのなら、それはただただ残念なことだと思う。

 

 ただ何度も言ったように、あくまで応援はチームファスト。選手やチームが不快に感じてしまっているのなら、それは受け入れるしかないと思う。このあたり、いち野球ファンとしては己の存在の弱さを痛感せざるをえない。どうか、与田監督やチームの方々が応援団や歌詞に込めた思いを再認識してくれたらいいな、と思うばかりだ。

 

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