それでも僕は書き続ける!!

1996年生まれの阪神ファン。プロ野球や日々の感情を文章に表す楽しみを感じながら気ままに書きます

理屈っぽい自分の性格をプラスに変えられた話

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 子供のころ、「とびたは理屈っぽいよね」と周りの友達からよく言われました。僕の父もまた、家族から理屈っぽいと言われていました。

 

 みなさんは「理屈っぽい」って言葉にどんなイメージを持ちますか?

 僕は理屈っぽい自分が嫌いな時期がありました。今でもときおりコンプレックスに感じることもあります。屁理屈という言葉があるように、「理屈っぽい」という言葉にプラスの印象を感じる方はあまりいないのではないでしょうか。

 

 僕は感情表現があまりオーバーな方ではありません。全身を使って喜びをあらわす、なんてことを幼いころからしてこなかったので、可愛げのない子供だったと思います。

 昔の話です。小学生くらいになったとびたは、自分の思いや感情を伝える方法に「言葉」を選びました。

 言葉で説明できれば、自分の考えや感情が相手に伝わるんだ。ちゃんと伝わったときは楽しい気持ちになれるんだ。

 こんなことを考えていたような気がします。たぶん。

 ただし当時の僕は「自分が自分の方法で伝えること」だけに満足していて、「相手にきちんと届いているか、受け取りやすい工夫をしているか」というところまでには意識が向いていなかったようです。

 そうなると、ただ自分が話すだけで満足してしまう。自分が話したいように話してしまう。僕は長く話をしがちなので、その説明をする様が「理屈っぽいよね」というコメントに集約されていたのでしょう。

 僕はこれを言われるのが少し嫌でした。理屈っぽいという言葉に「めんどくさい」「細かいところにうるさい」という言葉が裏に隠れている、そんな風に聞こえたからです。実際、家族が父に向かって理屈っぽいと言うときはそういうニュアンスが込められていました。

 

 そんな僕も今年で23歳。理屈を重視する性格は変わりませんでした。でも、昔よりはそんな自分を好きになれているかなって思います。

 なぜなら、文章を書く楽しみを知れたから。

 先日、文春野球学校の西澤ゼミ・添削講座に参加してきました。その講義の中で西澤先生と村瀬校長、そして文春オンライン編集長の竹田さんの会話で、読者にどうやったら自分の言いたいことが伝わるかを考える一幕がありました。そのなかで印象に残ったことがありまして。

「けっきょく、伝わるかどうかって理屈なんですよね」

「面白いこと、受けることを書いてるんだけど、それを文章としてつなぎ合わせて読み手が腑に落ちるためには、理屈や論理が必要だと思います」

 ここでいう理屈は、状況説明や根拠を示すために必要な情報を提示する、物事を筋道立てて説明する、こういった意味合いが込められていたような気がします。

 

 伝わりやすい文章を書くには、理屈や論理が必要……今までもきっと頭の片隅でぼんやりと考えてはいたのでしょうが、こうやって文章のプロの方に言語化してもらったことで、自分の中に安心が生まれて、ジワ~と広がっていく感覚になりました。

 

 自分の中に自分自身を肯定する気持ちを持つことってすごく大事だと思っていて、僕の場合は理屈っぽい自分を肯定してくれるのが、文章を書いている瞬間なのだと思います。

 細かいことは割愛しますが、文章を書くのって決してラクな行為ではないです。思っていることが表現できなくて、キーボードを打つ手が動かなくなって、つらいこともそれなりにあります。それでもこうして何か書こうとするのは、きっと僕が僕らしくいられるからなのでしょうね。